2017-04-16

合理性と言う麻薬・非合理性という宗教


最近、自分自身の自戒を込めて考えていることがある。

…仕事をこなすには早い方がいい。
仕事は要領よく短時間で最大の成果を出す。
こと全ての人が合理性を追求することは疑いもなく正義だ!と妄信してしまう。
確かにこの世の中が自由市場経済の形をとっている以上、それには競争的な要素が必ず伴うので、合理性の追求=正義だと妄信しやすい環境だ。
一度、合理性という麻薬に手を出すと、更に更にと合理性を追求することになる。合理性の追求は増すばかりで、限りはない。
人への優しさや気遣い、コミュニケーションにかかる膨大な時間や、個人個人の感覚、気分は合理性の邪魔になる。
どんどん社会は早くなる。

さて、そもそも人間は、そんなに合理性の生き物なのだろうか?
人間、どこかに無理は出てこないのだろうか?

…芸術は感覚的で、それこそ非合理の固まりだ。
周りのことなど考えないで、動物的に作品を作れば良い。
社会の常識など、もってのほか。とにかく感覚的、非合理に生きるのが芸術だ。
人との待ち合わせに遅刻したって。自分の意見が、ただの感覚で論理がめちゃくちゃでも、芸術は爆発だ!って僕らは表面的に信じている。他人との約束は破るくらいがちょうどいい。メールの文面がめちゃくちゃだって、礼儀がめちゃくちゃだって。芸術に身を捧げた人間たちはそのぐらいでなければいけない。
僕らは非合理性という宗教に入信しているのだから。

しかしそもそも芸術って、そんなにステレオタイプだったっけ?
多様性があるのが、芸術ではなかったのかな?

競争社会における行き過ぎた合理性や論理性、芸術の場における神格化された非合理性。
どちらも必要だけど、人間の幸せにはどんなバランスがいいのだろう?

麻薬と宗教どちらもはまらず、ほどほどに。
ほどほどで人間らしく、私はありたい。

2017-04-09

藤原行成



以前、縁あって、半年間くらいかけて、日本における主要な美術雑誌(美術手帖・アトリエ・芸術新潮・みづえ等)10誌くらいの創刊から現在まで(廃刊しているものはそのときまで)のほとんどに触れる機会があった。
戦前からの雑誌では戦時中の貴重な記事など、多くの記事に触れ、絵描きとして大変勉強になった。
その経験は今の時代、ネットにはない情報こそ、オリジナルな思考を組み立てるために、ますます価値が増している中、本当に貴重な経験だったと感謝もしている。

美術といえども雑誌は、時代時代の興味をそのままに映すので、私なりに日本の美術界の興味の変遷がつかめるようになったし。その当時の評論家の評などを読んで、同時代的な作品評価がいかに当てにならないのか?ということも実感するようになった。今は、歴史上の名作とされる作品も発表当時は、評価が低いことなどはざらである。絵描きは真摯に自分の思う作品をただ作ればいいと改めて思うこととなった。

その中には、雑誌と言っていいのかわからないが、文化庁や国立系の美術館博物館の出す『日本の美術』『近代の美術』という冊子も含まれていた。
『日本の美術』では、何回かに一回「書」の特集が組まれていたので、今も今までも全く書道には興味がなかった僕も書に触れる機会を持つことが出来た。

もともと日本美術では書画といって書と絵は一体化していたので、日本画を描く私としては書にも造詣があるべきなのだが、私は正直、全く書には興味をもったことがなかった。
ただ自分で手に取るのとは違って、受動的に触れる機会は自分にとって新たな広がりをくれるものだ。

何度かに一回の書道の特集を目にするにつれ、書道の歴史的な変遷までは理解できなくても、なんとなくビジュアル的に「この字は公家っぽいな」とか、「武士の字だな」とか「僧侶の字だな」とか、私なりに感じるようになってきた。

そのうち、視覚的に、単純に絵として、美しいと感じる書を描く人を発見した。

それが藤原行成だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原行成

行成の書を、なぜ私が美しく感じるのかはわからない。
ただ行成の字の強弱のリズムや全体の印象が、その品格と美しさを圧倒的に私に感じさせることは確かだ。

行成の書も展示される展覧会が、五島美術館で始まっているらしい。
今から、実物を見るのが楽しみだ。