2016-06-22

見ようとすること


最近、絵画というのは、鑑賞者にとって、つくづく不親切なメディアだなと思います。

絵が動くわけではないし、音声で説明されたり、セリフが聞こえてくるわけでもありません。(マンガ表現を題材とした絵を別とすれば)吹き出しがついていて、セリフがあるわけでもありません。
デジタル技術が進み、映像表現がどこまでも広がる昨今、ただの動かない一枚の手描きの絵は、なんとも不親切な表現であり、今どき珍しいメディアなのです。

さてそんな不親切なメディアである絵画には、昔から受動的鑑賞者と能動的鑑賞者という話があります。

文字通り、表現された作品などから、その刺激を受動的に受け取る鑑賞者と、刺激を発展させて、自分なりに解釈する能動的な鑑賞者ということです。
そして、絵画は能動的な鑑賞者を育てるところがあります。

目の前にあなたの片思いの女性がいたとします。彼女が頬を赤らめて、
「あんたなんか…だいっ嫌いっ!。」
と言われた時に、言葉通り「あ?、僕は嫌われているんだ…諦めよう…」と受け取るのが、受動的鑑賞者だとすると、「彼女は頬を赤らめていたし…なんだか複雑な表情をしていたぞ…もしかすると、これは脈があるかもしれない!!だって、その前に、僕が彼女を好きなことを会話で匂わせたら、僕を意識して、ずいぶんと照れていたようだし…」と受け取るのが、能動的鑑賞者です。

勘違いかもしれない能動的鑑賞者は、そこから勇気づけられて、次の行動をイメージするかもしれません。ポジティブですね(笑)

美術や絵画というのは、基本的に能動的鑑賞者を前提としています。
受動的な鑑賞者も、度重なる鑑賞体験によって、能動的鑑賞者に変えてしまう悪魔の実。新たな見方や勘違いバンザイな面白い世界なのです。

実際、絵画の歴史は勘違いの連続です。
セザンヌの表現が、実は描くのが単純に達者ではなかったために生まれたものだったのかもしれないという話もあるのですが、そのセザンヌの表現が、セザンヌの絵画の鑑賞者であるのちの絵描きたちにとって、新たな表現のヒントになりました。

素朴派で知られるアンリ・ルソーも、正規の美術教育を受けた人たちのように(ルネサンス時代のラファエロのように)描けたら、描きたかったのかもしれません。別に鑑賞者を、ホッコリとした気持ちにさせるためにあのような絵を描いたわけではないのです。

そのように、絵画は説明が少なく不親切きわまりない表現であるからこそ、作品の解釈に幅が生まれやすいという特性があります。
長所と短所は紙一重とは、よく言ったものですね。

制作者はもちろん、鑑賞者も表現できるのが、絵画なのです。
美術の歴史を学んだり、異文化の事情を知ることは絵画鑑賞の基本です。
ですがたまには、展覧会の音声ガイドを手放して、能動的鑑賞者になってみてはいかがでしょう?
新たな歴史が生まれるかもしれません。

はじめに

《絵画のみる夢》と題して、ブログを始めます。
自分自身の思考のため、美術や絵画を中心に様々なことについて語ってゆくつもりです。
それが誰かの思考の一助となれたなら、なお幸いです。